遠藤京子のマクロビオティックな鍼灸の道

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2011年 02月 28日

TPP参加は、絶対に避けないと……。

マクロビオティックに大切な、おいしい野菜とお米。

 菅首相が、昨年、突然、TPP(環太平洋経済連携協定)なるものに参加すると言い出した。
 あれよあれよという間に、マスコミ総動員で、「平成の開国」などと言っている。「参加しないと世界に取り残される」などと言わんばかりの大合唱。この大きなごまかしっていったい……。

 こんなものに参加したら、とんでもないことが起こる。100%関税を撤廃して、何もかもが自由に輸入される。しかも、アメリカから一方的に……。
 マスコミは、ほんとうのことを伝えていない。

 マクロビオティックを続けるためには、おいしい玄米と野菜がなければならない。
 でも、それを作り続ける人がいなくなってしまったら……。
 アメリカから、遺伝子組み換え農作物が大量に入ってきたら……。
 困る、ほんとうに困る。

 先日、TPP参加に反対の人びとの集まりに言ってきた。
 そこで、3分間スピーチなるものがあったので、私も一言スピーチしてきた。
 動画配信されているので、見てください。

 

by HomeMacro | 2011-02-28 04:05 | マクロビオティックや食べ物のこと
2011年 02月 16日

ロンドンの高齢者

毎日通って、パブでジョッキを傾ける。

 ロンドンの街中は、実に高齢者が多い。そして皆元気だ。スーパーに行くと、カートを歩行器代わりのようにして押して歩くおばあさんが、どでかいカートいっぱいに、食料品を買い込んでいる。いったいどうやって持って帰るのかしら……。
 両手に杖をもって、数メートル歩いては、建物に寄りかかって休み休み歩くおじいさん。そんな一人のおじいさんと顔見知りになって、毎日挨拶をするようになった。彼は、毎朝、パブに行って、毎日同じ窓際の席に座る。毎日その外を通る私たちと、手を振って挨拶するようになった。昼にはご飯を食べにか、一度帰って、午後また出てくる。そして午後4時には必ず帰宅する。両手の杖にすがって、休み休みゆっくり歩いて……。
 おじいさんの名はジョージ。とっても大きい。手も大きい。とってもにっこり笑う。大ジョッキがいつもテーブルにある。
 
 私たちも何度かこのパブでパ、ビールを飲んだ。おいしんだなこれが!
 見回すと、おじいさんがたくさんいる。
 歩行器を側に置いている人。彼も、毎日同じ席で、ジョッキを傾ける。
 だいたいパブはセルフサービスなので、彼のかわりに他のお客さんがビールを運んでくれるのだけれども、それが、何ともさりげなくて、ごく自然な行為に見える。

 もっとも、バスでも、どこでも、高齢者の手助けを、ごく当たり前にみんながしているし、される方も、ごく自然にあたりまえという様子。その雰囲気は、日本にはないものだと感じた。

 パブの中では、あっちでも、こっちでも、盛んに話をしている。何を話しているのだろう? 天気の話が多いと聞くけど……。
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▲あるとき、パブの外に電動車いすが置いてあった。車いすに乗って、パブに行って、ビールを飲む、なんて素敵な!
 この国で年をとるのは、幸せなことかもしれないと、思う。

 日本でも、もっとみんな外へ出て、好きなことすればいいのに……。
 デイサービスじゃなくて……。
 

by HomeMacro | 2011-02-16 04:52 | ロンドンー東京-沖縄 歳時記
2011年 02月 04日

きれいな石

もう名前も忘れてしまったけれど……。

 片付けものをしていたら、中学生の時にある人からいただいた石のかけらが出てきました。
 その人の名前はもう忘れてしまったのだけれども、あまりにも時代を感じさせるエピソードなので、記しておこうと思う。
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 私が中学生の時、「東京オリンピック」があった。1964年のことです。当時、父の仕事の関係でモンゴルの医師と交流がり、その医師がモンゴル選手団の専属医師として、来日しました。
 そこで私たち家族は、モンゴル選手団を、浅草などに案内し、天ぷらやすき焼きをごちそうしたのです。そうして私は、彼らから、代々木の選手村に自由に入れる通行証のようなものをもらい、毎日のように遊びに行きました。

 なんせ1ドル360円の時代ですから、海外へ行くというのは、よほどのお金持ち。新婚旅行が熱海の時代です。それが、選手村は居ながらにして世界中の、それもアスリートたちが一同に滞在している場所ですから、それは、それは面白くて、出会う人、出会う人に、「Hello!」なんて声をかけて、サインをもらったり、それぞれの国のバッチをもらったりしました。

 その時、語学学校を卒業して、すでに海外のホテルへの就職が決まっていて、アルバイトとして、選手村での通訳をやっていた日本人と知り合いました。
 本名は忘れてしまいましたが、通称「ツウ」と名乗っていました。
 
 オリンピックも終わり、ツウさんは、アメリカだったか、ハワイだったかのホテルへと旅立ちました。程なく彼から手紙が来て、しばらくの間、文通をしていました。
 この石のかけらは、その手紙と一緒に送られてきたものです。
 「泳ぎに行ったらあまりにきれいな石があったので、送ります。ほんとうは、この30倍くらいの大きさだけれども、ハンマーで割っておくりました。机の上にでも飾ってください」というようなことが書いてありました。

 今では、珍しくも何ともないことだけれども、彼から送られてくる手紙には、外国の匂いがあって、小さな石のかけらから、たとえば当時テレビで放映されていた「ハワイアン・アイ」などで見ていた風景に思いを馳せていました。

by HomeMacro | 2011-02-04 15:57 | ロンドンー東京-沖縄 歳時記
2011年 02月 04日

盟友の死

彼を葬送る秋の一日、晴れた空に、とんびが舞っていました。
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 今から40年ほど前の4月、東京のとある単科大学の学生会執行部の部屋に、彼は現れました。私は、学生会執行委員ーの一人で、書記長ということになっていました。
 入学したての彼は、たった1歳しか年下にすぎなかったのに、かわいい後輩という印象でしたが、ともに学生会の活動を担いはじめると、先輩・後輩もない同志でした。
 
 私が入学した時点で、すでに、学生会執行部と大学側は、もめていました。大学側は学生会規約の「唯一の学生組織である」の、「唯一」と、「全学生によって構成される」の「全」を削除しろと言ってきました。削除しなければ、「学生会」を認めない。したがって、授業料と一緒に学校が学生から徴収した「学生会費」を、学生会執行部に渡さないと言ってきました。学生会費は、大学が徴収を代行したにずぎず、もともと学生会に支払われたものにもかかわらずです。
 
 学生会費がなければ、サークル活動などに支障を来します。
 私は、そもそも「学生会」は、学生の総意によって組織されるもので、学校側が認めるとか、認めないとかと言う筋合いのものではないと考えていました。
 私は、大学側の言うことがあまりにおかしいと思ったので、学生大会で意見を述べました。そのことがきっかけとなり一年先輩の執行委員から誘われ、私の学生会執行部での活動が始まったのです。

 その後、今にして思えばなぜ、あのようなことに学校当局がこだわったのかと、不可解な事柄も、たくさんありました。たとえば、学生会執行部が立てる「立て看板」を、学校側はすぐに撤去しました。それに対して私たちは、「表現の自由」を奪う行為であると訴える立て看板を立てます。それも、すぐに撤去されてしまします。仕方がないので、交替で根寝ずの番をしたりしました。

 クラス討論を組織したり、社会的・政治的課題にも関わったり、忙しい毎日を、ともに過ごしました。
 学生は、スポーツ関係のサークルを中心に、「規約問題」なんかどうでもいい、学校の言うとおりにして、早く学生会費を手にしようというものと、筋を通すべきとするものとが対立し、混乱状態でした。そして、大学側は、学生会執行部を無視して、各サークルに直接「サークル費」を支給するという行為に出ました。また、「空手部」などを使って、暴力的に学生会執行部の追い出しにのりだし、同時に、それぞれの親宛に、学生大会が「暴力沙汰」になった云々と呼び出し状を送ったのです。「暴力行為」を行なったのは、空手部員たちであったにも関わらずです。

 そのおかげで、地方から来ている学生は、仕送りを止められ、親元から通ってきている学生は、家を出ることになり、それぞれアルバイトに精を出さざるを得なくなりました。私も、東京近郊から通学していた彼も、家を出ました。しかも、空手部らの暴力はエスカレートし、暴力的に校内から追い出され、校内に入るのは命がけというような状況だとの情報も乱れ飛んでいました。
 しばらく様子を見ようということで、校内にな入れないまま、私たちの学生会活動は、崩壊していきました。
 田舎に帰ってしまった人、アルバイト生活が中心となった人……、みんな、ばらばらとなっていきました。
 
 私は、再度学校に戻ろうと授業料を支払いに行きましたが、学生部長に呼び出され、「学校に逆らわないという誓約書を書かなければ授業料を受け取らない」と言われました。私は、きびすを返して学生部長室を出てきました。背中に「それで本当にいいのかね-」という学生部長の声を聞きながら……。そして、なんと私は「授業料未納」で、退学処分となったのです。
 
 私たちより一学年下の彼は、結局私たちと一緒に自主退学し、その後、高校時代からつきあいのある彼女と結婚し、学生時代にはじめたアルバイトが、本職となって、病気になるまで続けて来ました。
 
 一年ほど前、地方に暮らす別の仲間が亡くなったとの連絡を受け、昔の仲間にはいつでも会えると思っていた私は大変ショックを受けました。
 急遽、東京近郊の何人かに連絡を取りました。とくに彼は、学生時代にやっていたアスベストの仕事が本業になっていたので、心配でした。
 そして、直接アスベストとは関係ないとしても、彼が癌を患っていることを知り、玄米菜食を奨めたり、代替医療の情報を伝えました。およそ月に1度、彼を励ますつもりで数人で集まることにしてきました。
 夏には、長野県に一泊旅行にも行きました。
 
 私たちは同じ志を持って活動したとはいえ、ほんの1年間ほどの短いつきあいでした。でも、学校と関係がなくなってからのお互いの生活の方がずっと長いにもかかわらず、まるで、昨日まで一緒に活動していたかのような感情を、お互い同士が持っていました。
 当時の呼び名で呼び合い、それぞれの人生を変えた短い間の出来事を、思い出していました。

 彼は玄米食を開始し、家族の人たちも、そうしているようでした。
 
 彼を見送るために、私を含めて4人の盟友が来ました。
 そして、彼の高校時代の同級生たちも来ました。
 私たちは、ともに彼を見送り、すぐに打ち解けて、一緒に集合写真も撮りました。
 彼が引き合わせてくれたのです。

 この一年近くの間に、少なくとも二人のまだまだ若い盟友が、先立ちました。

by HomeMacro | 2011-02-04 01:43 | ロンドンー東京-沖縄 歳時記
2011年 02月 01日

ロンドンの水道水。

塩素が入っていなということかしら?

 だいぶ前に、mixiのロンドン生活に関するコミュニティーで、ロンドンの水道水が飲めるか否かという話がありましたが、とりあえず、味はともかく、飲んでも大丈夫というのが、だいたいの結論でした。私は、料理用には、ペットボトルの水を買ってきて使っていました。でも、野菜を洗ったり、茹でたりするときは、大量に必要なので、水道水を使うこともありました。
 お米をとぐときも、いちばん最初と最後は、ペットボトルの水でしたが、途中、何度も水を取り替えるので、その時は水道水を使っていました。

 そのmixiの話題の時、スチームアイロンはどうかという質問もあり、石灰分が多いので、白い粉がアイロンから出続けるけど、別に大丈夫ですということでした。たしかに普通に沸かしたら、やかんや鍋の側面は白くなります。ちなみに、沖縄県宮古島の水も、同じでした。

 私は、500㎖の水の空ボトルに水道水を入れて、それを3個〜4個つないで、ブックエンドとして使っていたのですが、数か月たつと、ペットボトルの底に緑色のものが育ってきました。
 また、スチームアイロンを使うときは、なくなったときの補給用に、ペットボトルに水を入れて使っていたのですが、昨年の夏から4か月間、日本に帰国し、12月にロンドンに戻ったときにも、少し残っていた水の底が緑色になっていました。
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▲窓辺に置いてあったものは、とりわけ緑色がたくさん……。塩素が入っている水道水でも、お日様の光で光合成するものが入っているのかしら?

by HomeMacro | 2011-02-01 05:48 | ロンドンー東京-沖縄 歳時記