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遠藤京子のマクロビオティックな鍼灸治療

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2023年 06月 26日

ブログの引っ越しと「note」開設のお知らせ。

これまでのブログはすべて、「note」に移行しました。
さらに、1980年代の終わりから90年代に発行していた「蜚語」(ひご)という小冊子を、創刊準備号からデジタルアップしています。

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# by HomeMacro | 2023-06-26 01:02 | ロンドンー東京ー韓国ー沖縄ー台湾 歳時記
2022年 01月 22日

何がおめでたいのかの件について。

明けまして、何がおめでたいのか、分からない件。


20歳になるころから「明けまして……」と世間で交わされる新年とやらの挨拶が出来ない。なぜならば、「なにが、めでたいもんか」といった気持ちがむくむくと、このころに起こってきて、50年経った今も、「ふん、なにが、めでたいもんか」と思っているからである。


20代~30代のころは、東京の住宅が密集した地域に住んでいたので、1月1日は、わざと、朝も早よから洗濯物を、アパートの窓に干すのが私の習わしだった。

まあ、お節なるものは、店が休みになるし、31日の閉店間際には、高くて普段は食べることが出来ないものが叩き売られることもあるので、3日間の食料として購入はしたけど、「お節」とは思っていなかった。

仕事が休みになるから、時間がかかって普段作ることが出来ない本格的なカレーを作るのも、習わしだったけど、和風な「お節」なるものに対抗する気持ちもあった。


「なにが、めでたいもんか」って、そりゃそうでしょ。

年末年始は仕事がなくなって、食べるに困る人がいるから、炊き出しボランティアが出現する社会ですよ。


20代当時は、ベトナム戦争真っ盛り。三里塚の農民は農地を取り上げられ、沖縄返還は日米地位協定というまったくもっての不平等協定を押し付けられよしとされ、あちこちで公害によって身体を冒される人が続出し、生産現場では生産性向上運動により労働環境は悪化し、職業病が多発していた。

そもそも、女だということで、何かにつけて不利な状況を押し付けられて、三里塚(成田)空港建設反対運動の現場でさえ、飯炊は女の仕事とされていたような社会だったから。

で、それは、目に見える範囲では少しはましになったかのように見える50年後の現在でも、本当はそんなことなくて、状況はより重層的に複雑に入り組み、先が見えない。

そして極め付けは2011年。東京電力福島第一原子力発電所の爆発。生きた心地がしないまま、ほぼ2年かけて身辺整理し、避難移住を強いられた。


やっぱり「何が、おめでたいのか、分からない」。


さて、も一つ不可解なことがある。「初詣」なるもの。そもそも、年に何度も参るから、年明け始めていくのが「初詣」のはずなのに、ほとんどの人は最初で最後だよね。なんでいくんだろう? 何を詣でているんだろう?

いわゆる左翼までが、行くんだなぁ、初詣なるものに。


日本の神社は、明治維新の時に国民統合の手段として国家神道に牛耳られ、天皇を「現人神」としてその頂点におき、あの戦争へと人びとを駆り立てた。敗戦により、国家神道は表向きは消え去ったかのようだけれども、長い時間をかけて人びとの精神を支配してきたものは、そう簡単には消え去らない。消え去るどころか、さらに人びとの心の奥深く沈んでいって、いつでも復帰できるように待機している状態と言える。


莫大な税金を使って宮内庁なるものが維持され、あらゆるつまらないことに金が使われているにも関わらず、誰も異議申し立てをしない。それどころか、誰それがティアラを新調せずに、皇室を離れた誰それのものを借用したなどということが美談として語られている。

なんだよティアラ! 

COVID -19禍で、今日食べるものもなければ、寝るところもない人びとが増えている最中、そんな話題に腹を立てている。


この世は決しておめでたくはなく、おめでたいのは、こんな世の中を強いているこの国の政府の存続を許している有権者かもしれない。



まだ、文字を覚える前の娘を、三里塚(成田)空港建設反対の現地集会に連れていくときに、娘用に作ったゼッケン。

集会の目的を娘に話したら、こう呟いたので、それをそのままゼッケンにした。

小さな白いハンカチが、娘の体にちょうどよい大きさだった。


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# by HomeMacro | 2022-01-22 22:57 | ロンドンー東京ー韓国ー沖縄ー台湾 歳時記
2021年 08月 10日

韓国ドラマを地でいく。

コロナが片付いたら、最初に行きたい韓国。

 

 以前から韓国映画が好きで、東京文京区にあった「三百人劇場」でシリーズが始まると、地下鉄の回数券買って観に行くほどでした。近頃は、インターネットでの配信もあるし、DVDも安く手に入ります。韓国映画やドラマは、以前にもましてその水準があがったので、「ハマる」人が続出しているようです。


 ラブコメにしても、サスペンスにしても、時代劇さえも、常に現在置かれている政治的・社会的状況への作り手のメッセージが込められているし、俳優たちも、その中身を理解し、演じうる教養や知識、自らの思想性をきちんと持ち合わせて役作りが出来ていると思います。


 このかん、いくつもの作品を観てきて、ふと、思ったことがあります。


 私が韓国日初めて行ったのは1992年暮れ、日本文学の研究がしたいと日本に留学し、道半ばにして帰国した友人宅を訪れました。彼の家は光州市内でです。光州事件と言われる民主化闘争から12年を経ていた彼の地を、案内してもらいました。


 光州事件の犠牲者を埋葬した「望月洞(マンウォルドン)墓地」も、当時はまだそれほど整備されておらず、まあるい山が並び、ところどころに墓標がある程度でした。

年末年始で、大学にはほとんど人がいませんでしたが、市内の大学へも連れていっってくせました。彼は全南大学出身ですが、朝鮮大学の学生食堂に壁画があるとのことで、見に行きました。

冬休みで食堂は壁に沿って椅子が積み上げられ、何かの工事をしている様子でしたが、壁の壁画は見ることができました。

 その壁画はたいへん衝撃的なものでした。38度線を超えて互いに手をつなく若者を中心に、民主化も求めてやまぬ人びとが描かれていました。


 写真はたくさん撮りましたが、当時、私は、カラー写真をほとんど撮らなかったので、モノクロフィルムしか持っていませんでした。今更ながらに悔やまれます。

 そして、壁画とは別に壁にかかっていた一枚の版画に惹きつけられました。


 1992年から3年にかけての年末年始から13年後の2005年の大阪のホテルの一室で、私はその版画の作家・全情浩(チョン・ジョンホ)さんから、一枚の版画を手渡されました。


 光州民衆美術の担い手たちの作品が大阪で展示されることになり、作家たちが来日していたのです。その彼らの大阪滞在中、共に過ごすことになった山口泉さんとともに、酒を酌み交わすホテルでの三次会での出来事でした。


 13年前、衝撃を受けた壁画の書き手たちが目の前で酔っ払ってる。彼らと何度もグラスを「짠(チャン)」し、通じない言葉で通じ合ってるみたいな状況でした。


 これって、まるで韓国ドラマだ。



▼学生食堂の壁画。カラー写真でないのが残念。

これを描いた彼らも、当時はカメラなどなく、誰も写真を撮っていない。写真があるならぜひ送ってほしいといわれ、このモノクロ写真を送った。

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▼1992年の朝鮮大学学生食堂で出会った版画。チマチョゴリの女たちが太極を踊っている。

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▼現在、我が家のビオ鍼灸治療院を飾る版画「解放アリラン」。

2005年、大阪にて作者の全情浩さんから手渡された。

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# by HomeMacro | 2021-08-10 16:14 | ロンドンー東京ー韓国ー沖縄ー台湾 歳時記
2021年 06月 19日

オーロラ自由アトリエより新刊予定のお知らせ。

 


『死の国からも、なお、語られ得る「希望」はあるか?』

                      山口泉

7月下旬、オーロラ自由アトリエから、刊行予定!



 現在、山口泉 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/山口泉 の新しい著作の制作作業をしている。

 一昨年来、彼は絵筆を手にしはじめた。といっても、メインの仕事とはしていなかったものの、自著の挿絵や私が発行していた雑誌に挿画を描いていた。在学中は小説執筆に集中していたとはいえ、東京藝大美術学部に在籍していたころは、それなりに描いていたはずだ。


 彼の書く小説やエッセイは、日本語の言葉の持つ意味をあまりにも厳密に駆使しているので、違う言語に翻訳するのはとっても難しいと、かねてから思っていたが、絵画は少なくとも言葉の壁がない。


 彼は、今日の、どうにもこうにも狂ったこの国の状況に生きる者として、これまでと違った表現方法として、文章と絵を組み合わせるという試みをはじめた。本来は、原画に文章を合わせたものを、展示するということを目的としたものだけれども、 COVID -19禍にあってはなかなか実現が難しい。そこで、いわば「図録としての展示」を先行させようというのが、今回の出版である。


 私の仕事は、文章と原画を撮影した画像をInDesign というDTP アプリケーションを使ってレイアウトしていくこと。DTP のおかげで、出版社としては外注に出さなければならない仕事が格段に減ったので、製作費が助かるが仕事量は倍増した。それでも、細かいところまで自分で調整できるので、面倒がないし、納得が行くまでやり直しが出来る。


 私が書籍編集技術を身につけたころは、まったくのアナログ時代なので、原稿用紙に書かれた原稿の文字数、行数を数えて、それに従ってレイアウト用紙に指定を書き、画像は暗室で、レイアウト用紙に投射したものの輪郭をなぞって書き込んだものを、印刷会社に送るというような有り様だった。その後、原稿をデジタル化することを下請けとして行なう企業が出来、出版社をはじめた初期の頃はそういう企業にフロッピーあるいはMDというデータ保存をするメディアでやりとりをして、そこから印刷会社にデータが送られる時代もあった。


 Macintoshが出来てからは、DTP も自分でやれるようになり、マニュアル本をみながらなんとか習得し、データをMDに保存して、直接、印刷会社に送るようになった。


 現在はといえば、遠く離れた沖縄にいても、メールによってデータの送受信が出来る。

 私が昔ライターとして働いていたデザイン事務所には、わざと計算尺や算盤で字数やレイアウト指定の数字を計算するデザイナーがいたけれども、私たちは、それらの器具を使ったことのある最後の世代かもしれない。


 と、長々書籍制作のことを綴ってきたけれども、いちばん言いたい事は、今回の山口泉の「画文集」をレイアウトしていて、何度も泣きそうになったということ。それは、綴られた言葉からも、描かれたものからも、どうにもこうにも、どうにもなりそうもないこの国に生きる自分の、言葉にも何にもしようがない気持ちに、彼の表現が寄り添っているからだと思う。


 10代からこの国に「まつろわない者」(山口)として生きてきて、さまざまな場面で異議を申し立ててきたものの、その結果が今日、すなわち、命さえも保証されない日々を強いられている。

 ほんとうに「殺人五輪」(山口)は強行されてしまうのだろうか。

「東京五輪変異株」の出現に呆然とするしかないのだろうか。

 

 2011年の原発事故による放射能汚染列島に加えて、それから稼働を停止してきた40年以上経った原発の再稼働がはじまろうとしている。もう何が起こっても、不思議はない。


 滅びゆくこの国に生きて、私たちは何を「希望」へとつなげればいいのだろう。






# by HomeMacro | 2021-06-19 12:28 | 反戦・平和・自由
2021年 06月 11日

70の手習、織姫婆さんになる。

手織り機を買った。


 昔からやってみたかった手織り。

 これまで何度も買おうかと思ったこともあったし、家人に卓上手織り機をプレゼントされたこともあったが、なかなか実際に手がけることができなかった。

 沖縄にはいくつかの地域に、伝統織物がある。沖縄市の知花織もなかなか美しい。後継者養成のための制度もあるけれど、確か年齢制限があったような気がする。


 宮古島の宮古上布 https://ja.wikipedia.org/wiki/宮古上布 は見事な繊細な麻織物で琉球王朝時代には、あの悪名高い人頭税 https://ja.wikipedia.org/wiki/人頭税 として物納に使われたというもの。現在では後継者がなかなかいなくて、その育成にも力を入れているらしい。

新しい布がないので、古い着物などを解いて小物を作り、土産物として販売されている。

 勉強したり習得したりしなければならないことも、他にたくさんあるので、時間のかかる織物まではちょっと無理かもとの思いもあった。ところが、昨年来、SARS-CoV-2 感染が拡大し、私のような高齢者は重症化から死に至る可能性もあるというので、人との接触を避けることになり、ほとんど籠っている。


 鍼灸師として学ばなければならないことは、どめどなくあるけれども、時には息抜きもしたい。私は、編み物・縫い物などが結構ストレス解消になる。そこで思い切って、手織り機を買ってしまった。まあその前に、以前から憧れていた職業用ミシンも買ってしまったのだけど。


 卓上ではなくて、本物の手織り機。足踏みで縦糸(たていと)を上下に分けて、シャトルで緯糸(よこいと)を飛ばす「バッタントントン」という、鶴の恩返しに出てくる、あれだ。

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 織物はほとんどの場合、伝統的に織り方の方則が決まっていて、その習得も含めてそれぞれ後継者の育成などがなされている。ところが織り手が好きなように織ればいいという「さをり織」というのがあることを知ったのは、だいぶ以前のこと。


 「さをり織」 https://www.saorinomori.com/saori は、城みさをという人がはじめたもので、独自に織り機を開発して販売している。大阪ではじめたものだが今では全国、海外にも、愛好者がいて、織物教室などのワークショップも各地にある。

その理念はなかなかよいもので、織り手の自由な発想を求めている。


 織り機といえば「鶴の恩返し」では「バッタントントン」と織られていくイメージがあるけれども。それは、全過程の最終段階で、実はそれ以前の準備の方がはるかにたいへんだし、難しい。


 はじめて織り機を手にして、すでに2回、途中で作業を放棄した。「バッタントントン」は緯糸を飛ばしながら織っていくときの音。でもその前に縦糸を織り機にセットしなければはじまらない。縦糸が上下に分かれるように機械にセットするのが難しく、途中で放棄した。

 機械から外すと絡まった糸が……。でもご安心を。私はこんがらがった糸を解くのが好きなのです。学校や職場で、絡まったネックレスなどを「あなた好きだったよね。これ解ける?」と持って来られたこともあったくらい。織物に向いているのかな。


 織物というのは、緯糸を等間隔に上下に分かれるように機械にセットされた縦糸の間を潜らせていくわけだけど、縦糸が均一のテンションをもって機械にセットされないと、織り上がった布は波打ってしまう。はじめて織ってみたものはそんな感じ。したがって、はじめて織った布からは、いいとこ取りでちっさいものを作った。


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 も一つ難しいなと思うのは、糸の配色。縦糸に使う色と緯糸に使う色の関係が、どんなふうに仕上がるのかは、やってみないと分からない。何度も繰り返していううちに、大体のイメージはできていくのだろうけれども……。




# by HomeMacro | 2021-06-11 04:05 | ロンドンー東京ー沖縄ー台湾 歳時記